(第325話)タイタニック…🚢

今日は4月15日

この日になると
↓コレを思い出す…。

↓↓↓

今から6、7年くらい前に
アイルランド🇮🇪最北端、近時また紛争問題が勃発している北アイルランドとの国境に程近い街、Belfastにあるタイタニックミュージアムへ、会社の仲間たちとともに足を運んだ…。

豪華客船「タイタニック」が沈没したのは、
1912年の4月15日

今年で、はや109年。。

この博物館↓では、その船のレプリカや、本物の客室の備品を間近に眺めながら、実際の乗客の運命を辿り、その出来事に想いを馳せることができる…🤔

あの日の記憶の中で、今も一番鮮明に覚えているのは、その乗客名簿に、日本人の名前があったこと…🤔

「MASAFUMI HOSONO」

後で知ったことだが、、

そのタイタニック号に乗船していた唯一の日本人は、ミュージシャンの細野晴臣氏の祖父だった。

🙄🙄🙄 そう、

おっさんよりも歳上の人なら、誰もが知っている伝説のバンド「YMO」で、かの坂本龍一や高橋幸宏とともに、新たなミュージックシーンを創造していた人物のおじいちゃんである。

細野晴臣氏の祖父である細野正文氏は、当時41歳。鉄道院(現JR)の中堅職員だったそうだ。

彼は、1910年に、鉄道院の第1回海外留学生として、ロシア・ドイツ・フランスの鉄道事情を視察した後に、イギリスからアメリカ経由で帰国するにあたり、当時話題だった新造船「タイタニック号」の、1912年4月の初航海に乗り合わせていた…。

タイタニック号の乗客乗員は「2,224人」だったが救命ボートが足りず、「1,513人」もの犠牲者を出す悲劇を生んだことは、

その後、ディカプリオ主演の映画を通じて、全世界の人々に広く知らしめられている…😭

細野正文氏は「10号ボート(救命ボート)」に乗って、無事に生還を果たした…🤗

帰国当初は「奇跡の生還を果たした日本人」として歓迎ムードが強かったようだが、、タイタニック号では、子供と女性を優先して救命ボートに乗せていたという事実が広まってくると、細野氏へのバッシングが強まっていく…😞

『タイタニックがわかる本 改訂増補版』(成山堂書店)によると、タイタニック号の乗客男性で生き残ったの人は146人(全体の18%)だったが、その大多数は、細野氏と同じように、救命ボートに飛び乗って助かった人々。

繰り返しになるが、救命ボートへは、子供と女性が優先して乗せられており、男性の中では一等客室の乗客が優先されたらしく、細野氏と同じ二等客室の男性生還者は、僅か14人(全体の8%)しかいなかった…😭

タイタニック号の乗客で、最後まで救命ボートに乗らずに死んだ男性は「極限状態でもレディーファーストを貫いた」として、後に美談された一方で、生き残った男性は「卑怯者扱い」される始末…😑

細野氏もそうしたバッシング対象の1人となったわけだが、日本国内において、彼を一番批判した人物が、旧五千円札でも知られている「武士道」の研究者、かの新渡戸稲造氏であったことは興味深い…。

当時、新渡戸氏が、少年雑誌『義勇青年』のインタビューを受けてコメントした言葉は、以下の通り…

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「まんまと一命を全うした…」

🙄 こんな言葉を使っての、生還者に対する「痛烈な非難」は、今のご時世なら、確実に「炎上」の火種となって、教育者・思想家としての彼の人生に、大きな汚点を残すことになったであろう…😑